元寇、松浦党奮戦も行賞に不満倭寇へ

世界帝国ともいおうか、領土を西域にまで広げた中国元のフビライが、果たせなかった夢の一つに、日本攻略支配がある。いわずと知れた元寇(げんこう)、蒙古襲来。二度にわたる侵攻は、文永弘安の役といわれる。元帝国の武力に屈した高麗も、軍船を建造し、兵士を駆り出されて日本攻撃に参加する。弘安の役では、北から高麗軍、西から江南軍が押し寄せ、壮絶な戦いとなる。

ただ、高麗は、日本遠征にしぶしぶ従ったまでである。江華島に難を逃れた高麗政府は元の侵攻に降伏するが、これに不服を唱える崔氏の私兵が乱を起こす。三別抄である。これをせん滅するために兵力をつぎ込んだ高麗政府は、日本遠征をするにしても、軍事力が衰えていた。

日本説得のため派遣された元の使者張良弼は、皇帝世祖に打つべきか否か問われてたとき、こう答えた。

臣、日本に居ること歳余、その民俗を見るに狼勇殺を嗜(この)む。父子の親、上下の礼あるを知らず、その地山水多く、耕桑の利なし。その人を得ても役するべからず、その地を得ても富を加えず、況んや舟師海を渡るに、海風期無く、禍害測るなし。是れ有用の民力を以て、無窮の巨壑(きょがく)を填(うず)むと謂うべし。臣謂う、撃つ勿れ井上靖著風濤(新潮文庫)より

元寇では、日本は神風に救われる。強烈な風雨である。沖合に停泊した蒙古高麗(以下、蒙麗)軍の船が、これによって忽ちのうちに飲み込まれ、姿を消す。

博多の櫛田神社の大銀杏のたもとに、碇石(いかりいし)が横たわる。博多湾で沈没した蒙麗船の碇石である、。案内板には碇石は金海周辺で作られたとある。唐津加部島にあるの田島神社にも碇石がある。呼子港付近の海底から引き揚げられたもの。

蒙麗軍の日本支配を阻んだのが、自然の猛威だったことを知らせる。

元寇で、松浦軍の奮戦には目覚ましいものがあった。主戦場となった、壱岐、博多志賀島近海、地元の松浦御厨の海上で、蒙麗軍とわたりあう。弘安の役では、博多湾で奇襲攻撃かけた。

松浦太郎兄弟(波多兄弟)鎮西の諸将と城壁を博多の沿岸三十余町に築いて屯営す業。夜衆を率いて船を賊営の後に進め俄かに撃ちて三万余人を殺す本国通鑑より

松浦党の戦いぶり、結束力は賞賛されるものがあった。弘安の役が終わり、その戦功をたたえる論功の認知にいたり、松浦党は忸怩たる思いをする。というのは、戦功の認知申告には、第三者の証言を付けることが条件になっている。これに関連した面白い話がある。竹崎季長絵詞(たけざきすえながえことば)の当事者、季長が賊と戦い、さらに切り込もうとすると、家臣がしばらく待ち、証人を立てて戦いましょうといったという。これが絵詞に描かれているという。

なんとも、情けないような話である。奮戦した松浦党には行賞も厚くあって当然のはずだが、戦功の証人(第三者)がいなかった。このため、幕府に訴える行動にも出ている。

しかし、戦功の見返りは、思ったほどなく、松浦党に不満がたまる。それで、どうしたか。直接、高麗や元の敵地にのりこみ、沿岸を襲う略奪行為にも走るようになる。これが倭寇(わこう)のはしりであった。